愛に満ちた心を育て深めていくために、仏教の「四無量心」(しむりょうしん)を紐解いていくシリーズの2回目。今回扱うのは、思いやりの心。または慈悲の心。英語で言うと、compassionです。
▶︎ 第1回目 慈しみの心については、こちらから
思いやりの心とは
説明する必要はないかもしれませんが、思いやりの心とは、相手の立場に立ってその気持ちをともに理解し、助けを差し出したり苦を取り去る努力をともにしたりする心、と言えるでしょう。
NVC(非暴力コミュニケーション)でも「思いやりを持って聴くこと」を「共感」と呼び、練習をします。アドバイスをするでもなく、励ますでもなく、ただただそばにいて話を聴く。それが共感であり、思いやりのある態度です。
思いやりの心に欠かせないのは、次のようなクオリティーだと、Tara Brachはpodcastで説いています。
全ての命に対して向けられる平等な心…. この人には思いやりがあって、この人にはないと言うことではなくて、例外なくどんな人にも、どんな動物や植物の命にも向けられるのが、本当の思いやりの心。全ての命はつながりあっている、仏教で言う相互依存(interdependence) や諸法無我(全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がない)と言う本質への理解が必要。
どうにかしてあげたい、助けたい、と言う配慮の気持ちや行動が自然と湧き上がってくること。共感は、英語でempathy。思いやりはcompassion。二つの違うを挙げるとすれば、empahtyはただ聴く、compassionはそれに加えて何か積極的に行動する、行動したいと願うニュアンスが加わるようです。empathy < compassionと言う感じでしょうか。
思いやりの心について、生物の進化の歴史を紐解いてみましょう。400万年前に人類が出現した時、脳味噌の重さは今の半分もなくて、発達していたのは「は虫類脳」と呼ばれる脳幹、生命維持を司る部分だけでした。その頃は、敵か味方か、協力するか殺しあうか、と言うプリミティブな言動が多かった人間。それが次第に手を使って道具を作うようになり、30万年前「ホモ・サピエンス」が誕生した頃から、だんだんと脳味噌も発達してきて、高等哺乳類特有の大脳辺縁系(limbic system) が育ってきます。つまり情動や感情、記憶を司る部分 - これがまさしく思いやりに関係する共感脳が発達してきたのです。
その後、共感脳に加えて、理性的に判断、分析する大脳皮質(脳の一番外側の部分)も発達を遂げます。そのおかげで、人類は少しずつ時間をかけて共感力を高めるとともに、経済や政治での協力の仕方なども変わってきました。今では「人間とは愛と思いやりがデフォルトの生き物である」と言うことが常識になり、近年ではグローバルな地球意識が芽生え、テクノロジーに支えられて花開いています。思いやりは私たち人類の特権、生物の進化の賜物であり、それを目の前にいる人だけではなく、地球上の全ての生き物に広げて責任と調和のもとに行動していこう、と言うような態度もますます深まり広まっています。
人類史を紐解いてみても、人類の過程でせっかく発展を遂げてきた共感脳を存分に活用してくエクサイティングな時代に突入しているような気がしてなりません。
思いやりの心が妨害されてしまう時
私たちはみなつながっていて思いやりの輪を拡大できる、それが本質だ、と分かっていても、一瞬にして、敵を作ってしまうことは、誰しにもあります。レッスン1の慈しみの心と同様、思いやりの心も誰しもの心の中に内在しているのに関わらず、発揮されなくなってしまうのです。心が閉じてしまう、トランス状態になってしまう。
アインシュタインも、こんな風に言っています。
私たち一人一人は「宇宙」と呼ばれる全体の、一部。だから自分の思考や感情が、自分だけに特定されたものだ、と捉えてしまいがちだ。でもこれは、一種の錯覚に過ぎない。この妄想によって私たちは自らを刑務所に押し込め、ごく個人的な欲求を満たしたり、自分と親しい少人数の人たちにだけに限定して、愛を注いだりしてしまう。私たちの一人一人が取り組むこと。それは生きとし生ける全ての美しい存在に対し、思いやりの輪を拡大すること、そうすることで、この刑務所から自らを解放することができる。
-アインシュタイン
どんな時に、私たちは刑務所に入ってしまうのでしょうか?例えば、こんな時が考えられませんか?
思い通りにいかない時。相手にどう思われているかが気になる時。危険を感じる時、失敗するのが怖い時。時間に間に合わない、大丈夫だろうか。不安で忙しい時。やることリストを片付けようと躍起になっている時。=ひっくるめて言うと、ストレスを感じている時。サバイバル脳が共感脳を乗っ取ってしまっている時。
今ここにない満足を求めている時:現状に満足せずに、もっとこれがあったら!と今ここにない何かを求めている時、心ここにあらずになっている時。気晴らしに走ってしまう(スイーツかもしれないし、SNS、仕事、お酒、セックス、忙しくすること、なんでもそうですね)
執着:こうしなければならないと、一つのやり方に執着している時。違う、そうじゃない、と言う焦りや憤りや不満が、心を閉ざし、共感力を妨げます。
こう見ていくと、レッスン1の時と同じですね。何か怖かったり、ほしかったり、コントロールしようとしている時、100%そこに私たちの心はなく、たとえ思いやりを持っているフリをしていても、義務的にやっていたり、いい気になりたいだけだったり、自己中心的だったり、ご褒美を期待して相手に思いやりの心を差し出すフリをしていることもあるかもしれません。
思いやりの心を育てるには
セルフ・コンパッション
では、どんな風に思いやりの心を育てたらいいのでしょうか?それには、まずは自分自身に思いやりを向けること。それはワガママでも自分勝手でもなくて、とても大切なセルフケアの方法だし、人様に思いやりを向けるためのファーストステップなのです。
あ、痛むなんだな、悲しいんだな、怖いんだな、執着しているんだな。そう感じたとしても、私たちは普段それを充分に味わってあげることがあまりありません。たいがいは自分が子供の時に受けた扱い(「なんでそんなことするの!」「大したことじゃないよ」「ほらまたー、自分がいけないんじゃないの?」など親から受けた反応と同じように対処します。そして存分に感じずに、そう感じることはいけないことだと判断して、心を麻痺させたり、身体のどこかに押し込めてしまいます。
でもそれを、そのまま受け入れてやることが大事です。ちゃんと認めてあげること。自分に思いやりを向けられずに、誰に向けられるでしょう?自分にバカ正直になり、自分の弱さや暗さにも光を当ててあげるのです。本当の質の高い思いやりは、自分に思いやりを持つことから始まります。セルフ・コンパッションです。
思いやりの心を大切にする
自分の内側がクリアになると、人に向けて思いやりの心が持ちやすくなります。そのため必要なのは何よりも、プレゼンス。やりたいこと、自分の課題は置いておいて、全身全霊、「今ここ」にいること、あることが欠かせません。
ティク・ナットハンも言いました。Darling, I care about your suffering. あなたの心の痛みとともにいるよ。そう言う姿勢で人と向き合うのです。
ダライ・ラマは、こんな風に述べています。「私のことを、なんでみんな好きでいてくれるのか、よく分からない。でも一つ言えるとすれば、I care about caring。私は思いやりを持つことに、関心があり意識しているからかもしれない」と。
ダライ・ラマのような高尚なお坊さんだとしても、いつでも思いやりの心を持てているとは限らない。それでも、いつも開かれた心が大切だと、そこに注意を払い続けることはできる、と言うことですね。
特に敵対心がある人、攻撃してくれる人、価値が合わない人。こう言う人に対して思いやりの気持ちを向けるのが、並大抵なことではありません。だからこそ、セルフコンパッションをおこなった上で、そんな相手にでさえ思いやりの気持ちを向けていく、と言うのは大変けれども、自分の心に自由が広がってくる報われるプラクティスだと私は感じます。
身体で味わいアイデンテティーにする
思いやりの心が発揮されたら、それを15〜20秒ぐらい体で味わう、染み込ませる。こうやってStateをTraitに、つまり一過性の状態を、特性、性格に昇華させることも大切です。こうすることで、自分の存在自体が変わっていく、小手先ではなく、アイデンティーを変えてしまう。ダライラマは、それこそが「人類の希望だ」と述べています。
例えば、誰かにたいして心が開いている状態、自分の一番いい状態のとき、思いやりが発揮されている時のことを思い出してみます。そして少し時間をかけて、それを味わってみる。この人にとって今、世界はどうなっているだろう、どんな世界に住んでいるだろう、その時のその人の表情、感情、弱さ、何が必要か。それにつながり続けるようにして、ただともに感じます。みんな幸せになりたいだけ。あなたは私。この地球上をともに優しく歩んでいこう、そんな思いを体全体に広げてみます。
いかがでしょうか。こんなことを気を助けて、思いやりの心を育てていきたいですよね。こんな気持ちで思いやりを発揮した人は、幸福感が高まる度合いが高まる、と言われています。それは人間が生きていくのに不可欠なつながりや所属意識が満たされるから。
私たち一人一人が目覚めたハートを持っていきます。そして目覚めたハートの人たちが住んでいる世界に私たちは住みたいはずです。ともに生きとし生ける全てのものに対しての思いやりの心を育てていきましょう。
「四無量心」を紐解くシリーズ2回目、今回は思いやりの心について紐解いてみました。次回3回目と4回目も続けていきます。一緒にプラクティスをしましょう!
kokoさん
じぶんがじぶんを思いやらずに、だれがわたしを思いやるか?
そしてだれを思いやれるだろうか?
すべては、目の前にいるひと、起きること、鏡でわたしのうちがわを見せているんだなと思います。
そして、慈しみのこころも、思いやりのこころも、本来だれもがもっていたと言うように、わたしもかつて"よさ"として褒められるほど、やさしい思いやりをもっていたことを思い出しました。
大切な宝ものだったのに、じぶんからポイと捨ててしまいました。
だから、もう一度そのじぶんに還りたいです。